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観念的に造ること 音楽的に造ること

「私の体は、もう音楽的なタッチを作ることができない、、。」  (福永氏 最後の手紙より)

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ヴァイオリンの共鳴板を造る時、大きく分けて二つの方法があると思います。
それは

観念的に造ること 



音楽的に造ること

です。

たぶん、直感に頼るタイプは、観念的であることを馬鹿にするでしょうし、
論証や客観性に重きを置くタイプは、音楽的であることに普遍性を感じることができないでしょう。

ここで、観念的、音楽的とは何を意味しているのでしょうか?

観念的に造るというのは、生理的な反応を無視した、杓子定規なやり方とでもいいましょうか?

例えば、畑のナスやきゅうりが完璧な左右対称形の形をしていたら
だれでも生理的におかしいと感じるはずです。
それは「生きていない」からです。

しかしフェラーリが左右対称でもだれもおかしいとは思いません。
「生きている」必要がないからです。

楽器はどうでしょうか?

楽器を生き物と見るか、ただの道具と見るかで答えが変わってしまいますが、
共鳴の原理を考慮したフォノグラムの製作法では、部分同士の共鳴の結果、形が造られていくという原理にしたがって
共鳴板を作っていくのですが、けっして決められた型に押しつけて造っていくわけではないのです。

例えば、左右対称な楽器は見た目には綺麗ですが、共鳴の原理からすると矛盾してしまいます。
このような鏡映変換は見た目の対称性は保存しますが、音の対称性は保ちません。

ストラディバリの楽器は左右非対称なものが多いですが、これは、音の対称性、共鳴の原理にそった作り方をしていたという
間接的な証拠です。

つまり、観念的に造るということは、共鳴の原理は使わず、数学的、幾何学的に造るということです。

端的にいいかえますと

「耳を使わずに目だけで造る」

ということになります。楽器を造っているはずなのにおかしいと思いませんか?

逆に音楽的に造るということはどういうことでしょうか?

それは、部分の共鳴を全体に広げながら、まるで菌が繁殖するように全体と部分が共鳴しあいながら一つの統一体を構成していく、
その結果、自然と形ができてしまうというやり方です。

これがフォノグラムの楽器制作技術です。技術というにはあまりに有機栽培的な、自然農法的なやり方です。
一切こちらが手を加えないようにすることが大事であり、ただただタッピングトーンの音列を聞きながら、近くの部分同士を協和関係にしていく
ということを繰り返していくだけです。
これは、音楽そのものであります。
音楽は、部分の協和関係からスタートし、協和関係にない音が変化を生み、そしてまた新たな協和関係を作り、
そこに秩序同士の矛盾が発生し、最終的には全ての矛盾と緊張が解消されます。

そして、それはホワイトノイズに至るとき、そのときだけです。

音楽とは、人間の様々な心象風景を表現したものですが、
このホワイトノイズに至る時に、全ての矛盾が解消されてしまうというのは、意識が無意識に溶け込んでしまうことと同じです。

音楽は「意識」の流れ、ホワイトノイズは「無意識」の海 ということになります。

共鳴板は、理論上、全ての音を均等に含んでいなければなりません(ホワイトノイズ共鳴板)
そして、それは生理反応に基づく協和、不協和の感覚によるフォノグラムの方法で造ることができます。

音楽的に造ることというのはこういった意味です。
これに観念が追いつくことができるでしょうか?

新しいものの見方、考え方が必要なようです。
数学もあらゆる分野領域で可換から非可換に移行しています。
これは数学が音楽的な方向に転じ始めたといっていいと思います。

フォノグラムの数理はこの先にあると思われます。


violin wall




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