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鶴の恩返し

  • Day:2012.02.28 05:55
  • Cat:雑感

その後も孝行して老夫婦を助けていた娘が、ある日「布を織りたいので糸を買ってきて欲しい」と頼むので老爺が糸を買って来ると、娘は「絶対に中を覗かないで下さい」と夫婦に言い渡して部屋にこもり、三日三晩不眠不休で布を一反織り終わった。「これを売って、また糸を買ってきて下さい」と彼女が夫婦に託した布は大変美しく、たちまち町で評判となり、高く売れた。老爺が新しく買ってきた糸で、娘は2枚目の布を織り、それはいっそう見事な出来栄えで、更に高い値段で売れ、老夫婦は裕福になった。

しかし、娘が3枚目の布を織るためにまた部屋にこもると、初めのうちは辛抱して約束を守っていた老夫婦だが、娘はどうやってあんな美しい布を織っているのだろうと、老妻の方がついに好奇心に勝てず覗いてしまった。娘の姿があるはずのそこには、一羽の鶴がいた。鶴は自分の羽毛を抜いて糸の間に織り込み、きらびやかな布を作っていたのである。もう羽毛の大部分が抜かれて、鶴は哀れな姿になっている。驚いている夫婦の前に機織りを終えた娘が来て、自分が老爺に助けてもらった鶴だと告白し、このまま老夫婦の娘でいるつもりだったが、正体を見られたので去らねばならないと言うと、鶴の姿になり、別れを惜しむ老夫婦に見送られ空へと帰っていった。




わたしの生活は、研究(制作)生活と社会生活(娑婆行)の二重生活です。
まったく異なる精神状態に身をおくことになるので、その行き来がスムーズに出来なければ
両方ともが破綻してしまいます。
どちらか一方だけの生活ならばなんの難しさもありません。

長い時間、研究生活を離れますと、自分が何を考えていたのかすら忘れてしまいます。
このブログも自分で書いたにもかかわらず、まったく理解できなくなってしまうこともあります。
ここで「長い時間」とは物理的な時間の長さではなく、精神的な時間の長さの間隔です。
つまりは、まったくの別人になってしまうということです。

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研究生活というものは「孤独」なものです。

「極限の集中状態」の中に身をおき、五感は下界から離れ、精神は静まり、まるで空気までもが凍りついて結晶化しているような、どこまでも透明で「無音」の雪山を、一人で探査しているかのような境地になります。
永遠を感じることができます。

この世界にどっぷりつかって研究を続けることができればどんなに幸せだろうか
と思うこともありますが、やはりどんな状況も「厭き」がきますし、そんなことはこの世では許されない仕組みになっています。


この世の本質は「変化」にあるからです。

「変化」を認めることができれば、「分離」を愛することができます。

雑多な社会生活は、精神統一の境涯とは真逆の「分離、分散」の世界です。
このような「不統一、不完全」な時間感覚に身をおくことでしか体験できないこともあります。
生き物とは「苦しい存在」ですが、やはり「美しい存在」だと思います。
花が咲くのは「変化」の世界です。


「美」よりも美しいもの
それは「変化」である      (フランスの諺)

このような二重生活を送っていて いつも思い出されるのが、「鶴の恩返し」という寓話です。

何かを生み出している(創造している)時は、人間ではない別のものになり、
「人」と触れれば、「人」の形象に戻る

われわれ人間だけが、聖俗行ったり来たりを許されている存在物なのかもしれません。

「身体のフォノグラム」もこの世界では「変化」し続けます。

むしろこの世界の「変化」を司っている諸力が「フォノグラム」なのかもしれません。

研究生活も、社会生活も、表向きは全然違う生活のように見えて、実は同じということなのでしょう。

人生のどんな場面の一瞬も、全身全霊で味合わなければ大損です。

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