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山水に学ぶ

  • Day:2012.10.10 21:33
  • Cat:雑感
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鳥取県 大山の頂上から眺める朝日

私は、20代中頃から山登りを始めました。
登山のきっかけは、道元の「正法眼蔵」を読めるようになりたいという思いからでした。
「正法眼蔵」は世界一難しい哲学書と言われていますが、いくら頑張っても
当事の私には読めませんでした。
「正法眼蔵」に「山水経」という部分がありますが、たしか、山水がそのまま仏であるというような内容が書いてあったように思います。

??????????

当事の私は、いわゆる過去の文献によりどころを求めるような
そんな学び方をしていたように思います。
まだ自分のフォノグラム能力を信じ切っていなかったので、外に論拠を探していたのです。
書物を置き、山に登るなどということは、当事の私にしてみれば時間の無駄としか思わなかったでしょう。

しかし、正法眼蔵はどう転んでも頭だけでは理解できませんでした。

ならば山水に直接聞いてやろう。

そんな感じで登山を始めたのでした。(不純な気もします。)
近くの比叡山から初めて、徐々に、遠くの山に出かけるようになりました。

そして、実際に山水が教えてくれました。
山水経のくだりが少しずつですが理解できるようになったのでした。

「概念や観念が先にあるのではない、実体が先にあるのだ。」

ということを実感した瞬間でした。


徐々に、フォノグラム能力が強化されていくにつれ、正法眼蔵も
結局はフォノグラムのことを示しているのだということに気が付き始めました。



話は変わりますが、白山に登山に行く道すがら、勝山市から、白山登山口までヒッチハイクでいったことがありました。
その時のことですが、乗せていただいた方が幼稚園の園長先生で、

「あなたは、生きた教材だから、今から幼稚園に来て、園児にお話をしてください。
そのかわりに、白山まで連れて行ってあげるから。
園児たちに”登山で得られる達成感の素晴らしさ”を教えてあげてください。」

という話を持ちかけてきました。
まーいいやと思い、幼稚園にそのまま拉致されてしまいました。

リュックの中身を一つずつ出して、見せるだけで、園児たちは大喜びでした。
私は、もちろん園児たちに何も教えず、ただ一緒になって戯れました。
その後、園長先生と一緒に、白山に向かったわけですが、
園長先生がおもむろに、

「どうして山に登るのですか?」

という質問を私にしてきました。
私が言葉に詰まっていると、

「達成感ですか?」

と伺ってきました。
私はさらに言葉が詰まってきました。

「達成感とかではないんですけど、、、、。」

私は、その時このように説明をしたと思います。

「山の頂上にいるときは、すべてが穏やかで、まるで神様に抱かれているようです。
が、しかし、山の頂上からは、その山の美しい全体像(神様の姿)は見えません。
それは里(娑婆世界)からでしか眺めることできないものです。
山の頂上は、いわば園児の心境です。私はそれを求めに山に登るのです。」



最近、やっと、遠くに眺める山の景色もいいもんだと思うようになりました。
今ではとても懐かしい思い出です。

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離散調律から連続体調律へ ①

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現代ピアノのほとんどはいわゆる”平均律”という調整法に則って調律されています。
”平均律と”は、1オクターブ間にある12個の音の高さを、12等分に平均したことによりその名がつきました。
つまり、全ての基準となる「半音」の振動数比を、12回掛けて2となる数値(2の12乗根)で定めてできたものです。

これは、数学的、観念的に考え出されたもので、和音の協和性とは何の関係もありません。

*この協和感覚というものは、物理学では説明のつかないものですが、振動数比が単純な整数比である時、協和関係であることをピタゴラスが指摘しました。
ここで注意して欲しいのですが、協和感覚というものは、生理反応としての快、
不快が先にあって、その後、それが単純な整数比であったことが確認されたことです。つまり、協和感覚というものは生理反応に基づくものだということを強調しておきます。*

”平均律”に調律されたピアノは、どこをどう鳴らしても正確な協和音を鳴らすことができません。

*「ゼロビートの再発見:平島達司」を参考にしました。詳しくはこちらを*

ピアノという楽器は、鍵盤の一つを叩きますと、それに共鳴する弦全体が共鳴するようになっています。
ハンマーで叩かれた弦だけが鳴っているわけではないのです。

ですから、平均律で調整された楽器は、協和関係になっている弦が一つもないので
楽器から出る音色の印象は濁っていて(うなりや不協和成分がある)、共鳴が小さい分、音の大きさも小さくなります。

同じピアノを古典調律にするだけで、音色も音の大きさもガラッと変わってしまいます。古典調律とは、協和関係を基に、考えられた、調律法だからです。
協和関係にある鍵盤の弦が響き合い、音色を豊かにし、共鳴することによって
音が大きく聞こえるわけです。

ピアノの場合は、弦が一本一本離れているため、一本ずつ調整ができます。
波の重ねあわせの原理に従って、協和関係を構成していくことができます。
これを”離散調律”ということにします。
(既にこういう言い方があるかもしれませんが、連続体調律というものについて話していきたいので、比較のために、一応離散調律の意味を明確にしておきます。)

さて、ヴァイオリンの共鳴版は二次元の曲面です。
協和感覚に基づいてピアノを調律したように、共鳴版のどこかを削って、共鳴版の各部分の協和関係を増やしていくことができるでしょうか?

*一般的に、板の各領域は協和関係にあるとはかぎりません。
一枚の板ですが、別々の共鳴体が張り合わされたものになっています。


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(色の違うところは、別々の共鳴体で、それが勢力争いをしている様子です。
いわば、同じ楽器の中に、違う楽器が同居している状態です。
ある入力音に対して、それぞれが別々の共鳴をしてしまうので、喧嘩をしてしまいます。
これを一つの統一体にするにはどうしたらいいでしょうか?)


これが、これから考えていこうとしているテーマです。

これを、”連続体調律”と呼ぶことにします。


つづく

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O君 修行日記 ②  一次元フォノグラム

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「これは、Oクンが自力で制作した等音曲線(一次元フォノグラム)です。」

さて、ピアノによる音階練習を初めて、何週間か経ちますが、始めぎこちなかった指の動きが、とても滑らかになってきました。
また、一日一時間だけでも、指以外は動かしてはいけないという「座禅」をすることにより、Oクンにうっすらと、丹田が出来始めました。
これは、どんな作業でも、集中状態になると誰でもそうなります。
没我的に集中することこそ最高の”癒し”になるのです。
(ちなみに私は巷で流布している”癒し”という言葉が好きではありません。)

音階練習をすることで、Oクンの身体は無意識に「音」に反応し、身体がマッサージされていきます。これを一定時間継続するだけで、身体の各部位が、共鳴を起こし始めます。共鳴が強くなると同時に、集中状態も強くなっていきます。

また、等時等速で音階練習をさせることにより、タッチを一定に保つことを無意識に体に叩き込みます。
これによって、ノミを使うときも、ヤスリをつかうときも、同じストロークで削れるようになります。

身体自身が、統一的な共鳴版になってこそ、音を聞きとることができるのであり、
またその時初めて、精密なストロークのコントロールも可能になります。

音階練習と並行して、音を聞いて削っていくことも始めました。
いきなり、二次元平面でやるのではなく、輪切りにしたものを、一次元フォノグラム
と仮定して、練習することにしました。
これも音階練習とともに、毎日やってもらいました。

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このような、板切れを用意して、ヴァイオリン曲面の輪切りにしたものを、
等音線(この場合は一次元に見立てて、あえて線ということにします。)で作っていこうというわけです。
いきなりだと難しいので、制約条件を与えてやります。
まず板の長さが、ちょうど、ヴァイオリンの横幅の長さになるわけですから、
その位置の高さを、大体寸法表から割り出し、曲線のトップの高さを固定します。
また、外枠付近の返しのところで、一番厚みが薄くなるので、そこも3、3mmで固定します。高さのトップとボトムを決めてしまいます。
この3点(トップ1点、ボトム2点)をいかに綺麗な曲線で繋げていくかが問題となりますが、それが等音線(フォノグラムライン)に従うというわけです。

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まず、指でさすってみます。音が明らかに違うのが確認できたら、そこの場所に色鉛筆で印を付けます。これは一番原始的なフォノグラムです。
次に、印をつけたところを削る音に注意しながらゆくっり削っていきます。
音が変わったら、そこでノミを止めて、もう一度板を、指でさすって音がどう変化したか調べます。これをただひたすら繰り返すだけで、等音線は出来ていきます。

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この辺から、ノミの一削りではストロークが大きすぎて、音を一片に通り過ぎてしまいますので、道具をヤスリに代えさせます。
目標値に近づけば近づくほど、ストロークの幅が小さくなっていきますので、音を正確に聞いているかどうかが鍵になってきます。
つまり、ストロークの精密さは、音をどこまで精密に捉えることができるか
ということ同じことになります。

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この「微妙の妙」が分からなければフォノグラムは意味のないものです。
「微妙の妙」が分かるからこそ、そこに「違い」があることに気がつくのであり、同時に「同じ」ことにも気がつくわけです。

そして、自然ともっと細かい情報が欲しくなり、フォノグラムを調べたくなるのです。
Oくんにもうっすらとこの世界が見えてきたようです。
あとはそれを育てていけばいいのです。

一ヶ月も経たないうちに、彼はこのことを理解し、そして実際に作って見せてくれました。

私にとっても大きな喜びですし、教えることが十分に可能だということが分かりました。

次は、これを二次元に拡張していきます。

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(がんばれ、Oくん!)




つづく