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音楽と、粘菌と、フォノグラムと (3)

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さて、フォノグラムの調整が音楽そのものであることを見る前に、もう少し共通部分について考えておきたいと思います。
共通部分には、異なる協和音列集合の要素が同時に含まれるため、不協和音列集合になります。
ここで、初めから、共通部分の領域に身体を共鳴させます。
つまり、共通部分から線を引っ張っていきます。このとき、Aの領域に入っても、Bの領域に入っても
線は曲がることはありません。なぜなら、不協和成分が初めからないからです。それはそうです。
AもBも、共通部分の部分集合なのですから。

無題fffff

音列の少ない領域を削ることによって、音列を増やしていくことが、渦を消去することになります。
これは共通部分の喪失を意味します。つまり同一の領域になったということです。
フォノグラム空間は、板の各点の近傍における音列集合要素のハリ合わせで構成されていますが



「音列を増やしていく」

ということと

「渦を減らしていく」

は同値の言明だということになります。


しかし、渦を一つ残らずなくすことはできません。
なぜなら、渦こそが全ての音を含んでいるはずだからです。
それは全ての領域の共通部分ということができるでしょう。

これが

「渦が一つにまとめられる」(丹田ができる!)

ということと

「共鳴版の音響特性がホワイトノイズになる」

ということが同値であるはずだという意味です。

つまり、フォノグラムの操作においては、

「渦」を消していきさえすれば、いつか一つにまとまる

ということがいえます。(なんて簡単!!)

実際のフォノグラムの変化は、ある領域の不協和成分(ノイズ)をなくすように削ると、全体の共鳴状態がガラッと変わってしまうため、協和状態であったはずの領域が不協和領域になったり、不協和状態だった領域が協和状態に反転してしまうことがよくあります。
この全ての領域を矛盾なく協和状態にするには、共鳴版の各点において、音列を極限まで増やしていけば可能になります。

そのフォノグラムの変化は、まさに音楽そのものです。
本題に入る前に終わってしまいました。次回に回します。


*だいぶ訳わかめだと思いますが、愚か者のたわごとだと思って適当に流してください。*


つづく

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音楽と、粘菌と、フォノグラムと (4)

一定の周波数をもった自然音は、その整数倍の周波数を持った倍音を成分として無限に含んでいる。こうした倍音の高さの音は、元の音(基音)の一部でもあるため同時に鳴らすと協和して聞こえる。それらの倍音を何オクターヴか下げて基音と同程度の音域に調整したものも、やはり周波数の最大公約数が大きく、同じように協和して感じられる。

古代ギリシャにおいて、ピュタゴラスが周波数の比率の単純な音は協和することを発見したとされるが、17世紀に倍音が発見されると、19世紀にはヘルムホルツが、共通の倍音を含む音は人間の耳に協和して感じられることを発見した。周波数の比率の単純な音はそれだけ共通した倍音も多く、ピュタゴラスの主張を科学的に裏付けたといえる。例えば、純正な音程の場合、周波数の比率は、オクターヴが1:2、完全5度は2:3、完全4度は3:4、長3度は4:5、短3度は5:6となり、長3和音は4:5:6、短3和音は10:12:15となる。(ウィキより)


pythagor.jpg


面白いことに、現代の物理学や音響学でさえも、この「協和」ということをうまく説明することが出来ません。
ピタゴラスは、「周波数の単純な比率の音」が「協和」することを発見していますが、「協和」というものが「周波数の単純な比率の音」で定義されているわけではないということに注意してください。

あくまで、ピタゴラスの生理的感覚が「協和」というものを定義しているのであって、けっして生理から分離して「協和」というものが語られているもではないということに注意してください。

また、その後の科学者が、人間の生理反応から切り離した形で「協和」「不協和」の問題を解決しようと試みましたが、やはりうまくいっていません。

わたしは、このピタゴラスの生理反応に基づく「協和」「不協和」という概念を、積極的に認める立場に立ちたいと考えています。

くしくもピタゴラスは「音楽の祖」であり、かつ「数学の祖」であります。

フォノグラム研究とは、「音楽(情緒の表現)」と「数学(理性の表現)」を
「共通の母なる海(生命の源)」に返す研究だ
と言ってもよいと思います。

さて、話を、共鳴版上の一点の音列集合(無限集合)に向けたいと思います。

音列集合


共鳴版のどこかを削ると、共鳴版全体のフォノグラムは非線形的にガラッと変わっていきます。
全体のフォノグラムを眺めているだけでは、ほとんど制御不可能のようにも思えますが、ある一点における音列集合の挙動に着目しますと、ある法則が浮かび上がります。

その点でもよいですし、近くの点でもよいです。またもっと遠くの点でも、その点の音列集合に影響を与える変化であればどの点を削ってもよいです。

音列集合は単に、「振動数の異なる音の集まり」ですが、その集まりが集団で変化する時、「協和」になるときと「不協和」になるときがあるはずです。

これは証明する必要のあることですが、了解できる事実だと思います。

たくさんの音の集合を少しずつその成分比を変化させれば必ずその「協和のピーク」と「不協和のピーク」が存在するはずです。

また、この考えのすばらしいことは、「協和」「不協和」という生理的概念を保ったまま、厳密な
存在定理のように考えられる点
です。

*生理感覚というあまりに主観的と言わざるをおえない点を、こうすることで客観的な量概念のなかに
 内包してしまうという点が、わたしとしてはウルトラC級のアイデアだと思っています。
 あくまで道筋を示しているだけですが、かなり有効な気がします。
 こうすることで「フォノグラムという技法」が客観量としても扱ってよいことが「合法化」
 される可能性が出てきます*

また、「音列集合の協和のピークと不協和のピークが交互に来る」ということも主張したいと思います。

これは、「協和のピーク」や「不協和のピーク」が存在する という言明よりも、より確実性のない主張ですが、それでも、波の足し合わせは波であることを考えますと、そんなに無理なことでもないように思えます。

何ゆえ、このようなことを考えねばならないのか?

フォノグラムの陰陽、軽重は、「協和(弛緩)」「不協和(緊張)」の生理反応と考えるとつじつまが合ってくるのです。
またそれは、「音楽」としては矛盾の解消として、「数学」としては対称性の回復として現れるようです。

情緒的にフォノグラムを操作して、音楽的矛盾を解消していく道も、理性的にフォノグラムを操作して
その幾何学的対称性を高めていく道も、同じ結論に導くことを見る事になるでしょう。
「フォノグラム」は「音楽」と「数学」の故郷なのかもしれません。


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鶴の恩返し

  • Day:2012.02.28 05:55
  • Cat:雑感

その後も孝行して老夫婦を助けていた娘が、ある日「布を織りたいので糸を買ってきて欲しい」と頼むので老爺が糸を買って来ると、娘は「絶対に中を覗かないで下さい」と夫婦に言い渡して部屋にこもり、三日三晩不眠不休で布を一反織り終わった。「これを売って、また糸を買ってきて下さい」と彼女が夫婦に託した布は大変美しく、たちまち町で評判となり、高く売れた。老爺が新しく買ってきた糸で、娘は2枚目の布を織り、それはいっそう見事な出来栄えで、更に高い値段で売れ、老夫婦は裕福になった。

しかし、娘が3枚目の布を織るためにまた部屋にこもると、初めのうちは辛抱して約束を守っていた老夫婦だが、娘はどうやってあんな美しい布を織っているのだろうと、老妻の方がついに好奇心に勝てず覗いてしまった。娘の姿があるはずのそこには、一羽の鶴がいた。鶴は自分の羽毛を抜いて糸の間に織り込み、きらびやかな布を作っていたのである。もう羽毛の大部分が抜かれて、鶴は哀れな姿になっている。驚いている夫婦の前に機織りを終えた娘が来て、自分が老爺に助けてもらった鶴だと告白し、このまま老夫婦の娘でいるつもりだったが、正体を見られたので去らねばならないと言うと、鶴の姿になり、別れを惜しむ老夫婦に見送られ空へと帰っていった。




わたしの生活は、研究(制作)生活と社会生活(娑婆行)の二重生活です。
まったく異なる精神状態に身をおくことになるので、その行き来がスムーズに出来なければ
両方ともが破綻してしまいます。
どちらか一方だけの生活ならばなんの難しさもありません。

長い時間、研究生活を離れますと、自分が何を考えていたのかすら忘れてしまいます。
このブログも自分で書いたにもかかわらず、まったく理解できなくなってしまうこともあります。
ここで「長い時間」とは物理的な時間の長さではなく、精神的な時間の長さの間隔です。
つまりは、まったくの別人になってしまうということです。

turukai.jpg




研究生活というものは「孤独」なものです。

「極限の集中状態」の中に身をおき、五感は下界から離れ、精神は静まり、まるで空気までもが凍りついて結晶化しているような、どこまでも透明で「無音」の雪山を、一人で探査しているかのような境地になります。
永遠を感じることができます。

この世界にどっぷりつかって研究を続けることができればどんなに幸せだろうか
と思うこともありますが、やはりどんな状況も「厭き」がきますし、そんなことはこの世では許されない仕組みになっています。


この世の本質は「変化」にあるからです。

「変化」を認めることができれば、「分離」を愛することができます。

雑多な社会生活は、精神統一の境涯とは真逆の「分離、分散」の世界です。
このような「不統一、不完全」な時間感覚に身をおくことでしか体験できないこともあります。
生き物とは「苦しい存在」ですが、やはり「美しい存在」だと思います。
花が咲くのは「変化」の世界です。


「美」よりも美しいもの
それは「変化」である      (フランスの諺)

このような二重生活を送っていて いつも思い出されるのが、「鶴の恩返し」という寓話です。

何かを生み出している(創造している)時は、人間ではない別のものになり、
「人」と触れれば、「人」の形象に戻る

われわれ人間だけが、聖俗行ったり来たりを許されている存在物なのかもしれません。

「身体のフォノグラム」もこの世界では「変化」し続けます。

むしろこの世界の「変化」を司っている諸力が「フォノグラム」なのかもしれません。

研究生活も、社会生活も、表向きは全然違う生活のように見えて、実は同じということなのでしょう。

人生のどんな場面の一瞬も、全身全霊で味合わなければ大損です。

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