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自分で考えることの大切さ

  • Day:2012.01.21 21:40
  • Cat:雑感
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わたしは いわゆる ベビーブーマーです
受験 就職など ひたすら周囲と競争しなければならない世代です
意味も解らずに 競争に勝ちさえすれば良いので
物事の本質を考えるタイプの人間は育ちません

わたしは 幸か不幸か 自分の頭で考えることだけを追求し
また それを育ててくれる環境に身をおくことが出来ました
そして 今も それを失うことなく(なんとか)生きています 笑

それは 友人や先生がよかったからだと思います

正直なところ
学校には属してはいましたが
学校で何かを学んだということはありません
学問的なことですらです

わたしが先生から教えられた ただ一つのことは

「自分の頭で考えろ」

ということだけでした


# 懐かしい先生との思い出 # 


*わたしが一人黒板の前に立たされています
 数学の証明をしなければなりません

先生;「さあ 始めなさい」

僕:「はい  わかりました」

*このとき 何も解らずに 黒板に一行すら書くことが出来ません

一時間経過

二時間経過

三時間経過

僕;「、、、、、、、、、」

先生;「少し進んだね また来週」  

*黒板には何も書かれていません



こんなことが 何週間も続くこともありました

その時は 「何で教えてくれないんだろう?」

と思っていましたが

自分で解けたときに全てがわかりました

わざと 言わなかったんだと

どんなに時間がかかっても どんなに稚拙な進歩でも
自分の内側から引っ張り出してこなければ
「それ」を「経験」することは出来ないのです

知識はすぐに忘れます
情報化社会の発達した現代において
何かを知っていることは
あまり重要ではありません
その時 調べればいいのですから

大切なのは 
自分自身の頭で考え
自分自身の体で感じることです

どんなに幼稚でも
そこにこそ価値があります

この世界(不思議の国)は 万人に平等に開かれています
自立した 裸の個人として 世界に対峙したいものです

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人間賛歌

  • Day:2012.02.01 00:31
  • Cat:雑感
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(落ち葉拾い :ミレー)

なぜ論理的でなければならないのか?

率直に申し上げますと フォノグラムによる楽器製作法は
いわゆる「気」を利用した製作技術です。

「気」とはなんでしょうか?

現代の科学では 観測にかからなければ
存在しないものと扱われてしまいます。(実証主義)

このような科学の態度に批判的な方もおられるでしょうが
私はそれで良いと思っています

もちろん 私のような研究をしているものには不利に働くでしょう
でもそれで良いのです



「理論があって 初めて何を観測するかが決定される」(アインシュタイン)



形式的公理系というものをご存知でしょうか?

数学をやっている方以外では あまり耳慣れない言葉であると思われます

「気」それ自体を直接 定義する(これこれはこういうものだとする)のではなく
「気」についての真と見なされる陳述をまず列挙し
その陳述の間に「矛盾」があるかないか
をまず問題にします
「気」それ自体は 「無定義語」とするわけです

:*フォノグラムとは「無定義語」そのものです*

すると 現実的に存在するかどうか という問題は別にして
少なくとも 論理的には矛盾がない ということが言えます

つまり 直接観測にはかからなくても
理論的に証拠立てる道は残されているのです

そして 理論が膨らんでいけば 間接的に
理論の一部が実証されるかもしれません

そうしたことの積み重ねが 理論を育て
実験方法や観測装置を発展進化させるのだと思います

これは 現在の物理学者のとる研究スタイルだと思われます

(もちろん この方法が全てといっているわけではありませんし
実際のところ 私自身が「気感」を駆使して物事を見ています。)

「出来ないのなら 出来ないと証明して見せろ!」

「想いだけではダメだ! 想いと想いの間に 橋を架ける努力をしろ!」

今はなき 恩師のこの言葉が 未だに胸に響きます

私にとって 科学や芸術は 人間の地上的な努力の結晶であり
人間賛歌であると思っています

大切なのは「仕事」(地上的努力)をすることです

芸術や科学も「労働」に違いはないのです

「想い」は何よりも大事です

しかし 「想い」を形にする力は 泥臭い日々の「労働」だけなのです



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鶴の恩返し

  • Day:2012.02.28 05:55
  • Cat:雑感

その後も孝行して老夫婦を助けていた娘が、ある日「布を織りたいので糸を買ってきて欲しい」と頼むので老爺が糸を買って来ると、娘は「絶対に中を覗かないで下さい」と夫婦に言い渡して部屋にこもり、三日三晩不眠不休で布を一反織り終わった。「これを売って、また糸を買ってきて下さい」と彼女が夫婦に託した布は大変美しく、たちまち町で評判となり、高く売れた。老爺が新しく買ってきた糸で、娘は2枚目の布を織り、それはいっそう見事な出来栄えで、更に高い値段で売れ、老夫婦は裕福になった。

しかし、娘が3枚目の布を織るためにまた部屋にこもると、初めのうちは辛抱して約束を守っていた老夫婦だが、娘はどうやってあんな美しい布を織っているのだろうと、老妻の方がついに好奇心に勝てず覗いてしまった。娘の姿があるはずのそこには、一羽の鶴がいた。鶴は自分の羽毛を抜いて糸の間に織り込み、きらびやかな布を作っていたのである。もう羽毛の大部分が抜かれて、鶴は哀れな姿になっている。驚いている夫婦の前に機織りを終えた娘が来て、自分が老爺に助けてもらった鶴だと告白し、このまま老夫婦の娘でいるつもりだったが、正体を見られたので去らねばならないと言うと、鶴の姿になり、別れを惜しむ老夫婦に見送られ空へと帰っていった。




わたしの生活は、研究(制作)生活と社会生活(娑婆行)の二重生活です。
まったく異なる精神状態に身をおくことになるので、その行き来がスムーズに出来なければ
両方ともが破綻してしまいます。
どちらか一方だけの生活ならばなんの難しさもありません。

長い時間、研究生活を離れますと、自分が何を考えていたのかすら忘れてしまいます。
このブログも自分で書いたにもかかわらず、まったく理解できなくなってしまうこともあります。
ここで「長い時間」とは物理的な時間の長さではなく、精神的な時間の長さの間隔です。
つまりは、まったくの別人になってしまうということです。

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研究生活というものは「孤独」なものです。

「極限の集中状態」の中に身をおき、五感は下界から離れ、精神は静まり、まるで空気までもが凍りついて結晶化しているような、どこまでも透明で「無音」の雪山を、一人で探査しているかのような境地になります。
永遠を感じることができます。

この世界にどっぷりつかって研究を続けることができればどんなに幸せだろうか
と思うこともありますが、やはりどんな状況も「厭き」がきますし、そんなことはこの世では許されない仕組みになっています。


この世の本質は「変化」にあるからです。

「変化」を認めることができれば、「分離」を愛することができます。

雑多な社会生活は、精神統一の境涯とは真逆の「分離、分散」の世界です。
このような「不統一、不完全」な時間感覚に身をおくことでしか体験できないこともあります。
生き物とは「苦しい存在」ですが、やはり「美しい存在」だと思います。
花が咲くのは「変化」の世界です。


「美」よりも美しいもの
それは「変化」である      (フランスの諺)

このような二重生活を送っていて いつも思い出されるのが、「鶴の恩返し」という寓話です。

何かを生み出している(創造している)時は、人間ではない別のものになり、
「人」と触れれば、「人」の形象に戻る

われわれ人間だけが、聖俗行ったり来たりを許されている存在物なのかもしれません。

「身体のフォノグラム」もこの世界では「変化」し続けます。

むしろこの世界の「変化」を司っている諸力が「フォノグラム」なのかもしれません。

研究生活も、社会生活も、表向きは全然違う生活のように見えて、実は同じということなのでしょう。

人生のどんな場面の一瞬も、全身全霊で味合わなければ大損です。

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